一人ぼっちの精神障がい者をなくせ。〈No.3〉
一浪目はずっと寝てた。
だんだん近づいてくる試験の日を考えると、重いプレッシャーを感じ英単語を覚えようとするが、何度書いても覚えられず、泣きたくなる毎日だった。
最初の病院はその冬に行った。
母に連れられて行き、その時は医者に自律神経失調症と診断された。
医者の話では、こういう状態になった受験生は、願書を出しても試験を受けに行けないのが通例だと聞き、自分は何としても受けに行こうと決心した。
試験は全滅という散々な結果に終わり、二浪することになってしまったが、よく試験を受けに行ったと自分で自分を褒めた。
よくやった、そうだお前は頑張った、と慰めた。
一浪目は大船の予備校に通ったが、二浪目は高田馬場にある予備校に代えた。
ショックを受けて何も分からなくなった学生が、予備校に通ってももう無駄だった。
最初のうちは通えたが、先生の講義も分からず、友達も出来ず、そのうちに又休むようになってしまった。
苦労と共にめちゃくちゃの浪人生活二年間だったが、高校一年生、二年生の時にがり勉をしていたことが功を奏して、なんとか合格した。
しかし、大学には受かったものの、頭も働かないので授業に付いていけず、友達も出来ず、余りのストレスのために、唯でさえ近眼が強くて見えない視力も、更に落ちてしまった。
母が見兼ねて、二つ目の病院に連れて行ってくれた。
そこで医者と相談して、大学一年目は休学することに決めた。
休学が決まってから、教会に行くようになるまでの約半年は、殆ど引きこもっていて寝てばかりいた。
あの頃を思い出すと、自分は廃人同様だった。
悲惨な日々が続き、寝過ぎでフラフラになって、その上に更に寝込んで頭が変になった。
現実の世界よりも夢の中の世界の方が気持ちイイという、狂った逃避の生活が繰り返された。
それでも僕が冬の日、午前中気持ちよく寝ていると、母は無理やり掛布団をはぎ取っていった。
母は子供の生活を直したいという強い思いから、甘やかさず、入院もさせず僕を支えてくれた。
僕が学校に行きたくないので家でぐずぐずしていると、母に玄関からオッポリ出されてしまった。
近所を何周かして家に戻るということもあった。
家に入れないときはベンチに、例えば当時国鉄の駅はゴロリと寝っ転がれるベンチだったので、そこで寝たりもして、夕方になって帰った。
菊池 初(仮名)